2015年05月31日00:00
2015許禰神社だより 皐月(5月)
カテゴリー │許禰神社だより
5月(さつき)は三倉の里山にもお茶刈り機の音が響き渡り緑がまぶしい季節となりました。神社での行事は5月は月次祭の他は特にありませんでしたが夏に向けてまた準備で忙しくなりそうです。
さて、今月は少し三倉の歴史について触れてみたいと思います。神社の歴史を知るには地域の歴史を知ることがかかせません。許禰神社は平安時代中期に編纂された延喜式にのっていることから、少なくともその時代にはこの地域に集落が存在したはことは確かです。(西暦925年頃 約1,100年前)
そこで、そもそもいつ頃から三倉と呼ばれてきたのでしょうか?三倉という地名はどこからきているのでしょうか?一説には徳川家康がこの地で助けられたお礼に(三つの蔵でかくまってもらった)三倉という地名を授けたとの話がありますが、これはどうやら逸話のようです。(西暦1574年頃)
というのもそれ以前の文献に三倉という地名が登場しているからです。
室町時代初期の史書で今川了俊著の「難(なだ)太平記」があり(西暦1402年)これは今川了俊が一族の功績などを覚書として残した書物で22章からなり13章に三倉山という地名が出てきます。引用すると・・・
建武四年(1337)やらん、康永元年(1342)やらんに、奥勢(=奥州勢)とて北畠源大納言入道(=親房)の子息顕家卿三十万騎にて押して上洛せしに、桃井駿河守(=直常)に〈今播磨守〉宇都宮勢(=原文、宇津宮勢)・三浦介(=相摸勢)以下味方(=尊氏 方)と為り、跡よりおそひ上りしに、故入道殿はその時は遠江国三倉山に陣どりて、此御方の勢に馳せ加りて海道所々にて合戦なり。
難しいですね!訳すと「建武四年か康永元年の頃、奥州勢の北畠(きたばたけ)大納言入道の子息顕家(あきいえ)卿が、三十万騎で押し寄せて上洛(京都に入いること)した。一方、桃井駿河守と宇津宮勢・相模勢以下が味方となり顕家のあとを追って来た。故入道殿(今川範国)は、その時は遠江国三倉山に陣取って、味方(桃井・宇都宮・相良勢)の軍勢に馳せ加わって海道のあちこちで合戦した」ということになります。
三倉山とは三倉地域もしくは三倉城跡(大関さんの裏山)を指すものと思われ、足利尊氏の命を受け初代遠江守護として今川範国が陣取ったとされています。そして三倉を拠点に足利勢として美濃をはじめとする合戦に出向いているのですね。「難太平記」というのは範国の息子の了俊がこれらの戦記をまとめ上げたものなのです。 来月号に続く・・・
【許禰神社御遷座100周年記念事業 情報】
広報森町5月号に「家康と森町のかかわりを知る」という記事が掲載されています。ここに家康が田能で奇襲を受けた際に助けられたお礼に「天下和平不生禍亂」という自筆短冊を贈ったとの文がありますが、これは許禰神社に実在するものです。100周年にあたりこれをより後世に残せる形を検討中です。
さて、今月は少し三倉の歴史について触れてみたいと思います。神社の歴史を知るには地域の歴史を知ることがかかせません。許禰神社は平安時代中期に編纂された延喜式にのっていることから、少なくともその時代にはこの地域に集落が存在したはことは確かです。(西暦925年頃 約1,100年前)
そこで、そもそもいつ頃から三倉と呼ばれてきたのでしょうか?三倉という地名はどこからきているのでしょうか?一説には徳川家康がこの地で助けられたお礼に(三つの蔵でかくまってもらった)三倉という地名を授けたとの話がありますが、これはどうやら逸話のようです。(西暦1574年頃)
というのもそれ以前の文献に三倉という地名が登場しているからです。
室町時代初期の史書で今川了俊著の「難(なだ)太平記」があり(西暦1402年)これは今川了俊が一族の功績などを覚書として残した書物で22章からなり13章に三倉山という地名が出てきます。引用すると・・・
建武四年(1337)やらん、康永元年(1342)やらんに、奥勢(=奥州勢)とて北畠源大納言入道(=親房)の子息顕家卿三十万騎にて押して上洛せしに、桃井駿河守(=直常)に〈今播磨守〉宇都宮勢(=原文、宇津宮勢)・三浦介(=相摸勢)以下味方(=尊氏 方)と為り、跡よりおそひ上りしに、故入道殿はその時は遠江国三倉山に陣どりて、此御方の勢に馳せ加りて海道所々にて合戦なり。
難しいですね!訳すと「建武四年か康永元年の頃、奥州勢の北畠(きたばたけ)大納言入道の子息顕家(あきいえ)卿が、三十万騎で押し寄せて上洛(京都に入いること)した。一方、桃井駿河守と宇津宮勢・相模勢以下が味方となり顕家のあとを追って来た。故入道殿(今川範国)は、その時は遠江国三倉山に陣取って、味方(桃井・宇都宮・相良勢)の軍勢に馳せ加わって海道のあちこちで合戦した」ということになります。
三倉山とは三倉地域もしくは三倉城跡(大関さんの裏山)を指すものと思われ、足利尊氏の命を受け初代遠江守護として今川範国が陣取ったとされています。そして三倉を拠点に足利勢として美濃をはじめとする合戦に出向いているのですね。「難太平記」というのは範国の息子の了俊がこれらの戦記をまとめ上げたものなのです。 来月号に続く・・・
【許禰神社御遷座100周年記念事業 情報】
広報森町5月号に「家康と森町のかかわりを知る」という記事が掲載されています。ここに家康が田能で奇襲を受けた際に助けられたお礼に「天下和平不生禍亂」という自筆短冊を贈ったとの文がありますが、これは許禰神社に実在するものです。100周年にあたりこれをより後世に残せる形を検討中です。